英語苦労している人がいるみたいなんでちょっと書いてみます。ちなみに俺は英検5級。
(さっと辞書が引けると便利です。追加希望)
基本的に理系の文章は、簡潔で明快である事が求められます。これは英語も日本語も一緒です。小説のようにごちゃごちゃした表現や、1文で複数の意味を持たせたりするような事はありません。なので必要とされる英語力は文法に限って言えば中学生レベルでも構いません。
英語をネイティブに話す人の割合の方が少ないわけですから、怖がらずにチャレンジして下さい。
WikipediaにはSimple Englishがあります。ここで練習してみるのもいいかもしれません。
別に哲学的な事を云いたいのではなくて、英語を学ぶ上で注意すべきなのは、外国語を習ってると意識すること。だいたい日本語の文章でも意味のわからない物はあるわけで、明治の文豪の文章を読んだりすると気が滅入っちゃう事がある。それは所謂国語力が足りない、読解力が無いからで、これは英語についても云えること。
表現にはたった一つの内容へ誘導する表現と、多重的な表現によって重層的内容を聯想させる方法との二種類があると思えば良い。理系が目指すべきは前者だけれども、後者の意味はパロディがわかりやすい。「殴ったね! 親父にも(ry」なんて云ったりすると、アムロの科白と殴られた奴の情景が重なる。もっと高尚な話をすると、和歌では有名な和歌の一節を引用する技法(本歌取りと謂う)があり、さる月を詠んだ有名な和歌の一節を引用することで、自分の和歌では月の事を直接は詠んでないけれど、この和歌から月を聯想できたとしよう。するとその聯想は月の情景が朧げに重なってくるような物となる。こういう解釈技法は鑑賞とも呼ばれるけれど、まあ評論文で登場する事はまづないであろう。何かを説明するときにメタファー(暗喩)なんぞは必要とはしないのである。なお複数の表現を想定していないにも拘らず、幾らともとれる表現は悪文といえよう。
では明快な文章を書いたり読んだりするにはどうすればいいだろう。とにかく沢山読んでみることである。読解力をつけるため、なるべく質のいい英文を時間をかけて読解・解釈する。そのあと語彙を理解したら、声に出して何度も読む。読んだだけで意味がわからなければ、何度か振り返ってまたそこを読み直す。そうすれば自然と英語のリズムが頭に染込んでくる。いちいち振り返らずとも流れるように、つまり流暢な理解ともなれば完璧である。この方法はもっとも古典的だけれど、もっとも確実な方法だと思う。更に時間を掛けられるなら、漢文の素読のような遣り方でもいい。
日本語では「柿食へば」とくれば「鐘が鳴るなり」、「祇園精舍の鐘の聲」とくれば「諸行無常の響きあり」、などと所謂名句のフレーズが浮ぶ。英語でも同じで、聖書の一節や、米国なら大統領の演説の一節がでてくる(不思議な事に、日本國憲法はそういう英語のフレーズを想起させられる部分が多い、全く不思議な事に。誰が書いたのだろうね、いやこの事は国会の議事録にあるほどに周知の事だけれど、つまり英文草案を和訳したから)。
名句だけではない。他にもコロケーション(Collocation)という物もあるから、音読は無駄にはならない。文章を読むのがやたらと早い人が居るが、そういった人は次にどういった意味の文章・語彙がくるのか解っているから読むのが早い。こういう文脈ではこういう意味になる、そういった事がわかれば誤読も滅切である。
しかもこれは人の脳の構造に適っている。脳科学によれば、人は文字を見れば映像として処理し、その後に音声へと結びつけ意味を理解する。何とも不思議な事に、音声に変換できて初めて文字を理解できるそうである(歴史的假名遣の文章を見るとやたらとわかりにくい、読みにくいと感じるのであれば、つまりそれは慣れていないから、恐らくこのことの関係している)。文字を見てそれを読む事は、映像と音声を結びつける機能、音声を言語として理解する機能、二つの働き、その脳の廻路を太くすることに他ならない。このことは、五感を全て活用するような勉強をすれば、その修得が早まるらしいことと恐らく無関係ではない。
だから文字の理解と音声の理解は別だと考えた方が好い。音声で理解できないと何時まで経っても英語は理解できない。だからなるべく正しい発音を心掛けて文章を読む。すると文字と発音が正しく結びつき、かつ文字から意味を聯想できるだけではなく、英会話の下地まで出来上がることになる。正しい発音なんてわかんねーってなら、単語だけでも正しく読むように心掛ける。妙な発音の単語は、辞書の発音記号も妙である。発音記号なんて読めなくてもいいのだけれど、慣れてくれば何となくわかるし、goo 辞書では単語の発音が確認できるから、読み方がわからない単語があれば調べて確認するとよい。英語のリズムやアクセントを憶えるにはこれでは不十分なので、英文を参照しながらネイティブが読んだ文章を聞いたりすればいいけれど、「漢文の素読」のようにただ聞いてるだけでもいいかもしれない。
作文力(構成力)に基づかない読解力は大変不安定な物と云われる。所謂五文型の如きは読解には大変向いている。しかし構成力にはやや不足があり、だからthere is構文だとか形式主語(目的語)、目的語にthat節や不定詞・動名詞を取る動詞、などを学習する必要が出てくる。まともに学習をすれば読解の内に憶えることだけれど、改めて構成力として活かしてみるのも肝要であろう。
この作文をする、文を構成するにも、コロケーションは活躍する。達意の人は、英作文の内に自然と筆が進むはずである。和文を作文するとき、どのような表現にしようか、と推敲することはあっても、どうすれば表現できるか、と悩むことはない。考えなくても書けるからである。英作文も同じである。自分の知っている英文の言回しを、少し変えてやることから始めれば良い。名だたる英作文のテキストで暗誦文(諳誦 or 暗唱文)の一覧があるのは、何も偶然ではない。憶えることが最も近い道だからである。
まづは英文を憶える。憶える英文は適当にテキストを買えばいい。暗誦用の和文を見て、英文がパッと浮べば、英作文を始める準備ができたと云える。
構成力を養う目的の問題は、空欄補充、単語並び替え、書き換え(不定詞を名詞節にしなさい等の問題)、などもある。読解から養うことも可能だけれど、道具は実際に遣ってみないと、説明書を読んだ程度では、しっくりこない。とにかく順番にこなすと宜しい。
ところで作文の技法には三系統程ある気がする。
一つは純粋に構成の仕方、文法の事である。ここにこんな単語は置けない、この語順は可笑い、これでは意味をなさない、この単語にはこの単語が欲しい、などであり、理解される英文を書くにはこれを辧えねばならない。
一つは形式美である。平家物語の冒頭は対句表現になっている。「祇園精舍」と「諸行無常」は同じ四文字の漢語で、文の構成も似ている。文末を「ですます」調に「だ」調に「である」調に、なども形式美の問題で、英語で古めかしい表現、文語的(堅い)とされる表現をすれば「である」のように聞こえ、口語的(砕けた)とされる表現をすれば「ですます」になるはずである。
一つは音声美である。和歌には何とも美しい響きがあるものが多い。漢詩(からうた)なんぞで韻を踏むことは音声の美を求めるからである。英語も同じであろう。こういう発音が欲しいという表現があるはずなのである。
これら全てを兼ね揃えて初めて名文と呼ばれるのであろう。最初は構成だけ考えればいい。最後の二つは理解を助ける物となるだろうが、無いからと云って問題にはならない。
Shakespeare の劇作で最も有名な、Hamlet の一節である。何で有名かと云えば解釈の多様性で有名なのである。或る人は「生きるか、死ぬか」と訳し、或る人は「こうしてる、こうしてない」などと訳す。最近の学説ではそういった全ての解釈を含んだ表現なのではないかとも云われている、つまり重層的内容の聯想である。まあ英文学科でやって欲しいレベルの話題。
さてこれは極端な例であったけれども、英語の考え方を身につけて、和英の関連を理解し、は並大抵ではない。レベルの高い大学を出たグラマが書いたような専門書は、日本の高校生の程度の英語力では全く理解できない英語で書かれているはずである。上を目指すならば、磐石な土台を築く方が良い。積み上げてもあっさり崩れるようではいけない。
ただしブログを読む程度であればそうでもない。所謂口語文は、語法の塊である。何でそういうのか、何故こうはいわないのか、という疑問の巣窟であって、文法を持ち出した所で到底理解できない。習うより慣れろである。
大分前にテレビで「さめる」と「ひえる」の違いは何か、なんてことをやっているのをみた(たしか、あるブログが本に纏まって出版され、その内容を紹介する安上がりな番組でのこと)。ボンヤリと「羹にこりて膾、の膾は冷める、水を氷にってのは冷える、というな」などと思って居たら、だいたいそういう解説であった。これは語法である。「お湯は冷める」が「冷える」わけではない。日常会話にはこういった細かな使い分けがワンサカである。
だから考えても無駄。「サ」は「早乙女(サヲトメ)」っていうし「若々しさ」を、「ヒ」は「氷室(ヒムロ)」っていうし「氷」を表す言葉だよね、それに動詞を作る「ム」や「ユ」が附くとなると、などと語源を考える余裕などない。日本語の言回しをしっていたからこそ、ボンヤリと考えることができた。慣れろとはつまりそういうこと、日本の中卒程度の英語力でも何とでもなる。
どっこい専門書になるとそうはいかない。日常使わない、慣れない表現が出てくる。ただこの慣れない表現、読解をやればだいたい網羅的に把握できる。だから目指したい場所によって勉強の配分を変えると宜しい。
最後に一つ。夏目漱石は漢文と英文の両方を修めた。後に漱石は、漢文は理解できたけれど、英文は最後まで理解できなかったと述べた。何が理解できなかったのかといえば、英文の根柢にある文化をである。外国語を習うとは外国の文化に触れるということ。英文で不可解な表現があれば、時折だけれど、ヨーロッパ的な故事、聖書の一節、なんかであったりすることがある。漱石が理解できなかったのは、こういった一連の思想であろう。もし本格的に英語力をつけたいのであれば、決闘に赴くが如き覚悟を要するであろう。
最近さる新聞に東大の教授が英語教育について意見を寄せていたのだけれど、だいたいその意見に触発されて勉強法を自分なりに纏めてみた。何かの役に立てば幸い。